腐女子に付き、予告なくナチュラルにホモ語り入ります。閲覧の際はお覚悟ください。
調べ物でネサフしていたら、ちょっと納得のいかん記述があったので、とりあえずここに書いておく。
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かのえいこうの実家として有名になった櫻田山神社ですが、wikipedia見てたらなかなか興味深かった。
武烈天皇といえば、歴代天皇の中でもとびっきり奇天烈なエピソードが日本書紀に書かれている天皇ですな。
なもんで、私はてっきり武烈天皇は天皇家の歴史の中でも黒歴史的な扱いをされてる人だと思ってたんだけど、主祭神としている神社があったんだねぇー。しかも東北に!
と思って調べてみたら、なんかやたら栗原あたりには武烈天皇を主祭神にした神社が点在してるのね。へーーーー。うわーちゃんと調べたい。いつか調べよう。
とりあえず、武烈天皇のことについてはひとまず置いておく。
詳しく知りたい人は各自wikipedia先生にでも聞いてみるが良い。
で、ここで取り上げるのは、
武烈天皇に仕える狩野掃部之祐及び久我大連の両名 ←これ。
櫻田山神社について、他に情報はないかとぐぐり旅に出ていたんだけど、
その中で、たぶん個人サイトさんだと思うんだけど、
「狩野掃部之祐」と「久我大連」について、
「かのそべのすけ」と「くがたいれん」とルビを振っているサイトがあって、
さすがにそれはないでしょ!!??と仰天しまして。
他に読みについて記述してあるサイトがないかしらとか探したんだけどなくて、(2ちゃんのスレのまとめらしきサイトでも「そべのすけ」と書いてあったんだけど、たぶんそれはこの個人サイトをコピペしたんだと思う。)
これはもう宮城県の神社庁か櫻田山神社に直接問い合わせた方早いんじゃないかとか思ったんだけど、いやいや、そんなこと問い合わされても困るよな実際、とか思いとどまったりして、もう大変。(私の脳内が。)
「狩野掃部之祐」と「久我大連」の読みっつったら、あなた。
「かのかもんのすけ」と「くがおおむらじ」でしょ。JK
どっから出てきた。そべのすけ。
そwwwべwwwのwwwすwwwけwww ってレベルで無いわぁ。
「掃部之祐」も「大連」も役職名で個人名ではありません。
辞書引くなりぐぐるなりしてもらえばすぐわかることなんだけど、
「掃部之祐(かもんのすけ)」は「掃部頭(かもんのかみ)」のすぐ下の役職(次官)のことで、
殿中のお掃除をする人、
「大連(おおむらじ)」は天皇の補佐をする人。
お部屋のお掃除の人は天皇の私室にまで入るわけだから、天皇の私生活で近しい存在だし、
大連といえば、家臣の中の最高位の「連」の中でも更にトップ。超エリート。
wikipediaの櫻田山神社の記事に、
天皇の側近と書かれるのも納得の立場の二人だというわけ。
ちなみに、「そべ」で「掃部」は変換されませんが、「かもん」ならばちゃんと変換されます。
同じく、「たいれん」で「大連」は変換されませんが、「おおむらじ」と打てばちゃんと変換されます。
とはいうものの、武烈天皇の時代の大連は「大伴金村」という人だとはっきりと日本書紀に掲載されているんだよね。(あと、物部麁鹿火)
大伴金村は武烈天皇の即位直後に大連の地位につき、武烈天皇の後の継体天皇の更に後の安閑天皇のそのまた後の宣化天皇のその次の欽明天皇の代まで大連を勤めている。
日本書紀には「久我」という名の大連はいないんだな。
加えて「久我」も「狩野」も、古墳時代にはあまりいない姓なので、神社庁の語る「由来」には少々矛盾点があることになる。…が、まぁ、よくあることっちゃよくあることだ。竹駒稲荷だって「小倉百人一首にも名を連ねる参議小野篁卿が陸奥守として御着任の際、東北開拓・産業開発の大神として御創建され」とか書いてあるが、小野篁が陸奥国司だった記録はないからな。(父親が陸奥国司だったため子供の頃に陸奥に来ているという記録はある。)
だからといって、神社の由来そのものを否定するわけじゃないんだけどね。
少なくとも、今から1500年も前に、東北の地に武烈天皇を祭神として神社を建てた人間は実在するんだと思うよ。
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かのえいこうの実家として有名になった櫻田山神社ですが、wikipedia見てたらなかなか興味深かった。
山神社は、人皇第25代武烈天皇に仕える狩野掃部之祐及び久我大連の両名が西暦506年12月8日天皇崩御の後、故あって東駒形山の麓に巡礼に参り天皇を追想して御影を建社し、これを山神社と尊称した。明治12年6月に村社に列し、同41年12月に桜田中屋敷の八幡神社を合祀する。大正15年7月幣帛供進社に指定される。社殿は、天喜及び天正の時代と明治16年に火災に遭遇しました。特に明治時代の火災の際は、拝殿と古文書等が焼失し本殿と社額(文化10年制作)のみが残った。地区内外の氏子・崇敬者を始め多数の信者の寄進により、白木流造りの彫刻付き(唐棟風)、御拝柱は勾欄付き、天井は絵で装飾(絵は寛政3年制作)の神明造りの拝殿を大正13年10月に起工し、大正14年4月に完成した。社殿は、昭和61年10月に栗駒町有形文化財(平成17年4月には栗原市有形文化財)の指定を受けている。また、境内地内には、「親子桜」・樹齢二千年(大正4年5月30日発行の宮城県林業資料参照)の「子桜」が立っており、歴史的に価値ある樹木として氏子から保存菅理されている。また、栗駒町有形文化財の指定受けている「桜田ばやし」は、山神社の春の大祭時に奉納し、各方面から多数の見物者が来訪して五穀豊饒・無病息災等を始め古来からの安産の守護神として信仰を集めている。へえええええーーーーー。主祭神は武烈天皇なのかぁ!!(宮城県神社庁のサイトより引用)
武烈天皇といえば、歴代天皇の中でもとびっきり奇天烈なエピソードが日本書紀に書かれている天皇ですな。
なもんで、私はてっきり武烈天皇は天皇家の歴史の中でも黒歴史的な扱いをされてる人だと思ってたんだけど、主祭神としている神社があったんだねぇー。しかも東北に!
と思って調べてみたら、なんかやたら栗原あたりには武烈天皇を主祭神にした神社が点在してるのね。へーーーー。うわーちゃんと調べたい。いつか調べよう。
とりあえず、武烈天皇のことについてはひとまず置いておく。
詳しく知りたい人は各自wikipedia先生にでも聞いてみるが良い。
で、ここで取り上げるのは、
武烈天皇に仕える狩野掃部之祐及び久我大連の両名 ←これ。
櫻田山神社について、他に情報はないかとぐぐり旅に出ていたんだけど、
その中で、たぶん個人サイトさんだと思うんだけど、
「狩野掃部之祐」と「久我大連」について、
「かのそべのすけ」と「くがたいれん」とルビを振っているサイトがあって、
さすがにそれはないでしょ!!??と仰天しまして。
他に読みについて記述してあるサイトがないかしらとか探したんだけどなくて、(2ちゃんのスレのまとめらしきサイトでも「そべのすけ」と書いてあったんだけど、たぶんそれはこの個人サイトをコピペしたんだと思う。)
これはもう宮城県の神社庁か櫻田山神社に直接問い合わせた方早いんじゃないかとか思ったんだけど、いやいや、そんなこと問い合わされても困るよな実際、とか思いとどまったりして、もう大変。(私の脳内が。)
「狩野掃部之祐」と「久我大連」の読みっつったら、あなた。
「かのかもんのすけ」と「くがおおむらじ」でしょ。JK
(「久我」に関しては「くが」ではなく「こが」の可能性もある。)
どっから出てきた。そべのすけ。
そwwwべwwwのwwwすwwwけwww ってレベルで無いわぁ。
「掃部之祐」も「大連」も役職名で個人名ではありません。
辞書引くなりぐぐるなりしてもらえばすぐわかることなんだけど、
「掃部之祐(かもんのすけ)」は「掃部頭(かもんのかみ)」のすぐ下の役職(次官)のことで、
殿中のお掃除をする人、
「大連(おおむらじ)」は天皇の補佐をする人。
お部屋のお掃除の人は天皇の私室にまで入るわけだから、天皇の私生活で近しい存在だし、
大連といえば、家臣の中の最高位の「連」の中でも更にトップ。超エリート。
wikipediaの櫻田山神社の記事に、
天皇の側近と書かれるのも納得の立場の二人だというわけ。
ちなみに、「そべ」で「掃部」は変換されませんが、「かもん」ならばちゃんと変換されます。
同じく、「たいれん」で「大連」は変換されませんが、「おおむらじ」と打てばちゃんと変換されます。
とはいうものの、武烈天皇の時代の大連は「大伴金村」という人だとはっきりと日本書紀に掲載されているんだよね。(あと、物部麁鹿火)
大伴金村は武烈天皇の即位直後に大連の地位につき、武烈天皇の後の継体天皇の更に後の安閑天皇のそのまた後の宣化天皇のその次の欽明天皇の代まで大連を勤めている。
日本書紀には「久我」という名の大連はいないんだな。
加えて「久我」も「狩野」も、古墳時代にはあまりいない姓なので、神社庁の語る「由来」には少々矛盾点があることになる。…が、まぁ、よくあることっちゃよくあることだ。竹駒稲荷だって「小倉百人一首にも名を連ねる参議小野篁卿が陸奥守として御着任の際、東北開拓・産業開発の大神として御創建され」とか書いてあるが、小野篁が陸奥国司だった記録はないからな。(父親が陸奥国司だったため子供の頃に陸奥に来ているという記録はある。)
だからといって、神社の由来そのものを否定するわけじゃないんだけどね。
少なくとも、今から1500年も前に、東北の地に武烈天皇を祭神として神社を建てた人間は実在するんだと思うよ。
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