腐女子に付き、予告なくナチュラルにホモ語り入ります。閲覧の際はお覚悟ください。
※この記事は後日作成していますが、当日の日付で投稿しています。
県道258号線に戻り、そのまま更に進みます。
前述したとおり、旧・富山町は水仙一押しの町。
富山も水仙が辺り一面に咲き乱れ、車道の路肩もずーーーっと水仙が咲いています。
更にはなんと街灯が水仙。
どんだけ水仙好きか!
そんなのどかな県道258号線を道なりにどんどん東に行くと、犬掛交差点に出ます。
ここを右折。県道88号線を南下。
で、ここで困った。
次なる目的地は、犬掛交差点を右折して88号線をちょっと南下した辺りで左折すればいい、というのはわかっている。
が、どこで左折すればいいのかわからない。
岩井駅のウォーキングセンターでもらったウォーキングマップはウォーキング用であってドライブ用ではないために、非常にざっくりとしている。
事前に入手していた情報によれば、案内板が出てるはずなのだ。
案内板を左折・・・すればいいはずなのに、その案内板が車からでは全くわからない。
困る私。私が使い物にならないので苛立つ亭主。その苛々の余波を受けてますます困る私。
うちの旦那様は普段大変に温厚な人なのですが、ハンドル握ると短気になるのです。
県道88号線を何度も行ったりきたりする私達の車。
ざっくりしたウォーキングマップを亭主に見てもらって、やっと、消防署の先を左折すればいいとわかる。
ほんとごめんなさい。旦那様。地図の読めない嫁でほんとごめんなさい。
でもでもこの地図も絶対に悪いと思うのよ!
だから岩井駅さんはドライブ用のドライビングマップを以下略。
消防署を左に見て、「犬掛お堂前」というバス停脇の細い道に入る。
よーーーーーーーーーく見ると、この道の入口に、「古戦場と里見氏の墓」と書いた案内板発見。
案内板ってこれか!!!
しかも板が劣化していて文字は全く読めない。
歩きだったらわかるかもしれないけど、車からこの文字を読めったってそれは無理さ!!
写真撮っとけばよかった。ほんっとに全く読めないの。案内板くらい定期メンテして!誰か知らんけど南房総市の人!せめて読めるようにして!
犬掛お堂前の細道ははっきり言って農道。
右も左も田んぼと畑。
そこをまっすぐ突き当りまで行き、左へ更に進むと里見氏の墓・・・が、あるはず。なのですが、やはり案内板などはない。
しかも道は更に細い完全な農道に。
車で行けると事前情報を得ていたが、車で行くに適した道ではない。
地元の人にとっては慣れた道でも、よそから来た人間にとって知らない道は怖い。とても怖い。
対向車が来たら絶対にすれ違えない。そしてこのまま進んで向こう側に抜けられるところがあるのかどうかもわからない。Uターンできるところがあるのかもわからない。
かといって手前に駐車場があるわけでもなければ、近隣に有料駐車場があるわけでもなければ、この先は徒歩で行くといいですよ的案内板があるわけでもない。伏姫籠穴と全く同じ不親切さ。
拒まれてる気すらする。つか、あんまりウェルカムムードがない。あんまりっていうか、ほとんどない。指定史跡なのに。
もしかしてあまり来て欲しくないところだったのかもしれないけれど、でももし、観光客にもう少し優しくしていただけるなら、この突き当りの地点に【 ←里見氏の墓 | 八房の像→ 】という立て札の一つも建てくれるといいなぁ。
そんなわけで、ほんとにここを行っていいのかどうか不安になる私。
更に運転手である亭主は、富山で崖っぷちの山道を走らされた直後なので、うちのワンボックスで狭い農道を通行するのを嫌がりだす。
仕方ないのでより狭い左折を断念し、まだ楽そうな右折をする。
ちなみに、行くはずだったここにある里見氏のお墓は、里見義通(3代)と里見義豊(5代)のもので、高さ60㎝位、室町時代の多層塔という様式のお墓なんだそうです。
昔はこの辺りに菩提寺があったらしいのですが、廃寺になったため、お墓のみこちらに移されたそうです。
ここら辺一帯は、里見氏同士の骨肉の争いを演じたといわれる犬掛の合戦の古戦場跡となっていて、その碑もあります。
南房総市の建てた説明板によれば、
この説明文によると、3代義通の息子の義豊が5代となっているので、後見役の叔父の実堯を4代と数えているようなんだけども、wikipedia先生を参照すると、本来後見人であるならば当主とは数えないそうなので、義豊は5代でなく4代が正しく、また、近年の研究ではそもそも叔父の実堯が後見人であったとする記録も後世の創作とされているんだそうな。
更に3代義通と実堯の兄弟の父とされている2代成義についても、一次史料が現存せず、伝えられる事跡についても裏づけを取ることができるものがないため、何らかの必要性があって捏造された架空の人物である可能性が高い人なんだそうで、義通・実堯兄弟の父は、初代義実であると考える説が有力になっているとか。
とすると、更に代は繰り上がり、3代とされている義通は実は2代、5代とされている義豊は3代になる事になる。
安房里見氏は、俗に「里見10代」と言われていて、南総里見八犬伝の中でも、「里見氏は10代で滅亡」と書かれているけれども、近年の研究に基づくならば、正しくは安房里見氏は8代で滅した事になる。
何しろ我らが伏姫たんが、パパ実こと安房里見氏初代当主・里見義実の娘と設定されているので、3代と5代となると子世代孫世代となるのだね。
初代パパ実は前述の通り、物語の全ての因果の種を蒔いた人。
その息子である2代成義は、wikipediaで架空の人物かもと書かれているが、物語では義成という名前で伏姫たんの弟として出てくる。シスコンこじらせたり後半のボスキャラの女にたぶらかされたりするが、八人の娘と二人の息子に恵まれる。八人の姫はそれぞれ八犬士の嫁となり、二人の息子が義通と実堯。
このうち長男・義通は、幼少時に後半のボスキャラに拉致られ、八犬士の一人・チート親兵衛に助けられる。物語のラストバトル(八犬伝オリジナルの架空大戦)のあと、里見家3代当主になるが若くして死去。
義通の子の義豊はまだ幼かったため、義通の弟の実堯が4代当主となる。
この頃には八犬士も高齢となり、それぞれ息子に家督を譲って富山に退隠する。
八犬伝の物語そのものはここで終わるけれども、末文として実堯はのちに甥である義豊との間に史実の天文の内訌を起こし、道を失い戦乱に明け暮れた里見家は、その後10代で滅することとなる。と結ばれている。
のどかな田園風景の中に史実とフィクションの融合の妙を堪能しながら栄枯盛衰の理を忍ぶのもまた趣があるのではないでしょうか。
南総旅レポ記事一覧
- 南総里見八犬伝めぐり(1) 前置き
- 南総里見八犬伝めぐり(2) 道の駅 富楽里とみやま
- 南総里見八犬伝めぐり(3) 南房総市・JR岩井駅
- 南総里見八犬伝めぐり(4) 南房総市・伏姫籠穴
- 南総里見八犬伝めぐり(5) 南房総市・県道258号線 ←今ここ
- 南総里見八犬伝めぐり(6) 南房総市・犬掛地区・八房と狸の像
- 南総里見八犬伝めぐり(7) 南房総市・滝田城址
- 南総里見八犬伝めぐり(8) 南房総市・道の駅三芳村 鄙の里
- 南総里見八犬伝めぐり(9) 館山市・館山城
- 南総里見八犬伝めぐり(10) 館山市・館山城内部
- 南総里見八犬伝めぐり(11) 館山市・館山城南麓・八遺臣の墓
- 南総里見八犬伝めぐり(12) 館山市・館山城里見茶屋
県道258号線に戻り、そのまま更に進みます。
前述したとおり、旧・富山町は水仙一押しの町。
富山も水仙が辺り一面に咲き乱れ、車道の路肩もずーーーっと水仙が咲いています。
更にはなんと街灯が水仙。
どんだけ水仙好きか!
そんなのどかな県道258号線を道なりにどんどん東に行くと、犬掛交差点に出ます。
ここを右折。県道88号線を南下。
で、ここで困った。
次なる目的地は、犬掛交差点を右折して88号線をちょっと南下した辺りで左折すればいい、というのはわかっている。
が、どこで左折すればいいのかわからない。
岩井駅のウォーキングセンターでもらったウォーキングマップはウォーキング用であってドライブ用ではないために、非常にざっくりとしている。
事前に入手していた情報によれば、案内板が出てるはずなのだ。
案内板を左折・・・すればいいはずなのに、その案内板が車からでは全くわからない。
困る私。私が使い物にならないので苛立つ亭主。その苛々の余波を受けてますます困る私。
うちの旦那様は普段大変に温厚な人なのですが、ハンドル握ると短気になるのです。
県道88号線を何度も行ったりきたりする私達の車。
ざっくりしたウォーキングマップを亭主に見てもらって、やっと、消防署の先を左折すればいいとわかる。
ほんとごめんなさい。旦那様。地図の読めない嫁でほんとごめんなさい。
でもでもこの地図も絶対に悪いと思うのよ!
だから岩井駅さんはドライブ用のドライビングマップを以下略。
消防署を左に見て、「犬掛お堂前」というバス停脇の細い道に入る。
よーーーーーーーーーく見ると、この道の入口に、「古戦場と里見氏の墓」と書いた案内板発見。
案内板ってこれか!!!
しかも板が劣化していて文字は全く読めない。
歩きだったらわかるかもしれないけど、車からこの文字を読めったってそれは無理さ!!
写真撮っとけばよかった。ほんっとに全く読めないの。案内板くらい定期メンテして!誰か知らんけど南房総市の人!せめて読めるようにして!
犬掛お堂前の細道ははっきり言って農道。
右も左も田んぼと畑。
そこをまっすぐ突き当りまで行き、左へ更に進むと里見氏の墓・・・が、あるはず。なのですが、やはり案内板などはない。
しかも道は更に細い完全な農道に。
車で行けると事前情報を得ていたが、車で行くに適した道ではない。
地元の人にとっては慣れた道でも、よそから来た人間にとって知らない道は怖い。とても怖い。
対向車が来たら絶対にすれ違えない。そしてこのまま進んで向こう側に抜けられるところがあるのかどうかもわからない。Uターンできるところがあるのかもわからない。
かといって手前に駐車場があるわけでもなければ、近隣に有料駐車場があるわけでもなければ、この先は徒歩で行くといいですよ的案内板があるわけでもない。伏姫籠穴と全く同じ不親切さ。
拒まれてる気すらする。つか、あんまりウェルカムムードがない。あんまりっていうか、ほとんどない。指定史跡なのに。
もしかしてあまり来て欲しくないところだったのかもしれないけれど、でももし、観光客にもう少し優しくしていただけるなら、この突き当りの地点に【 ←里見氏の墓 | 八房の像→ 】という立て札の一つも建てくれるといいなぁ。
そんなわけで、ほんとにここを行っていいのかどうか不安になる私。
更に運転手である亭主は、富山で崖っぷちの山道を走らされた直後なので、うちのワンボックスで狭い農道を通行するのを嫌がりだす。
仕方ないのでより狭い左折を断念し、まだ楽そうな右折をする。
ちなみに、行くはずだったここにある里見氏のお墓は、里見義通(3代)と里見義豊(5代)のもので、高さ60㎝位、室町時代の多層塔という様式のお墓なんだそうです。
昔はこの辺りに菩提寺があったらしいのですが、廃寺になったため、お墓のみこちらに移されたそうです。
ここら辺一帯は、里見氏同士の骨肉の争いを演じたといわれる犬掛の合戦の古戦場跡となっていて、その碑もあります。
南房総市の建てた説明板によれば、
- 義豊8歳の時、父・義通が死去。叔父の実堯が後見役となる。
- しかし、義豊が成長しても実堯が家督を譲らなかったため、義豊は挙兵。
- 天文2年(1533年)、稲村城の実堯を急襲し、実堯は自害。
- 翌年、実堯の子・義堯が、父の仇である義豊を犬掛に攻める。
- 義豊は稲村城へと逃走。自害。
この説明文によると、3代義通の息子の義豊が5代となっているので、後見役の叔父の実堯を4代と数えているようなんだけども、wikipedia先生を参照すると、本来後見人であるならば当主とは数えないそうなので、義豊は5代でなく4代が正しく、また、近年の研究ではそもそも叔父の実堯が後見人であったとする記録も後世の創作とされているんだそうな。
更に3代義通と実堯の兄弟の父とされている2代成義についても、一次史料が現存せず、伝えられる事跡についても裏づけを取ることができるものがないため、何らかの必要性があって捏造された架空の人物である可能性が高い人なんだそうで、義通・実堯兄弟の父は、初代義実であると考える説が有力になっているとか。
とすると、更に代は繰り上がり、3代とされている義通は実は2代、5代とされている義豊は3代になる事になる。
安房里見氏は、俗に「里見10代」と言われていて、南総里見八犬伝の中でも、「里見氏は10代で滅亡」と書かれているけれども、近年の研究に基づくならば、正しくは安房里見氏は8代で滅した事になる。
- 但し、近年の研究によれば、当主として数えられていない、義弘の嫡男・義重が実際は当主として政務を行っていた形跡があり、これを正式な当主として数えるべき、という説もあるそうなので、この人を当主に加えると、里見は9代が末代となる。
何しろ我らが伏姫たんが、パパ実こと安房里見氏初代当主・里見義実の娘と設定されているので、3代と5代となると子世代孫世代となるのだね。
初代パパ実は前述の通り、物語の全ての因果の種を蒔いた人。
その息子である2代成義は、wikipediaで架空の人物かもと書かれているが、物語では義成という名前で伏姫たんの弟として出てくる。シスコンこじらせたり後半のボスキャラの女にたぶらかされたりするが、八人の娘と二人の息子に恵まれる。八人の姫はそれぞれ八犬士の嫁となり、二人の息子が義通と実堯。
このうち長男・義通は、幼少時に後半のボスキャラに拉致られ、八犬士の一人・チート親兵衛に助けられる。物語のラストバトル(八犬伝オリジナルの架空大戦)のあと、里見家3代当主になるが若くして死去。
義通の子の義豊はまだ幼かったため、義通の弟の実堯が4代当主となる。
この頃には八犬士も高齢となり、それぞれ息子に家督を譲って富山に退隠する。
八犬伝の物語そのものはここで終わるけれども、末文として実堯はのちに甥である義豊との間に史実の天文の内訌を起こし、道を失い戦乱に明け暮れた里見家は、その後10代で滅することとなる。と結ばれている。
のどかな田園風景の中に史実とフィクションの融合の妙を堪能しながら栄枯盛衰の理を忍ぶのもまた趣があるのではないでしょうか。
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